ニューヨーク歴史:17世紀史(Discovery & Cultivation)

ニューヨークの17世紀史は、ヨーロッパからの移民により始まるといえます。ニューヨークは元来インディアンしか住んでいない場所でした。まず、大航海時代にヨーロッパ、とくにオランダの探検家、開拓民による移民がニューヨークにやってきます。名づけて、「発見し開拓す(Discovery and Cultivation)」17世紀です。ニューヨークの人々の暮らしを覗いて見ましょう。

ニューヨークの発見

「丘の島」= マンハッタン

2万5千年前(氷河時代)、ベーリング海峡は氷で繋がっており、インディアンは狩りをしながらシベリアからアラスカに渡ってきました。いくつもの部族が南北のアメリカ全土に散らばって居住しました。もとより、ニューヨーク(マンハッタン)でも、最も長く暮らしてきた人々は、アルゴンキンというインディアンの部族です(現在はその子孫が8千人に減りましたが、まだカナダに住んでいるんですよ)。白人(ヨーロッパ人)によるニューヨークの歴史は、たかだか400年しかありません。アルゴンキン族は「丘の島」という意味のアルゴンキン語で、「マンハッタン」という名前をこの島に付けました。

世界最初の株式会社

ハーフ・ムーン号大航海時代、イギリスの探検家“ヘンリー・ハドソン(ハドソン川の由来)”は、世界最初の株式会社に雇われて西インド航路(西側周りでインドへ辿りつく航海路)を発見する使命を受けます。その株式会社は「東インド会社」といって、航路・植民地の開拓運営を行なっていたオランダの会社でした。ユダヤ人が大株主の世界最初の株式会社でした。

1609年、ハドソンは偶然にもニューヨークを発見します。彼は当初、ニューヨークを西インド諸島(現在のカリブ海の島々)のひとつだと勘違いをしていました。オランダはニューヨークをクレーム(管轄権の主張)します。

コラム 日本最初の株式会社は、坂本龍馬が長崎に興した亀山社中、後の海援隊と言われています。三菱の前身といってもよい会社ですね。

人種の坩堝(るつぼ)

オランダのニューヨーククレーム後、オランダからの移民がはじまります。オランダはフランスや、ドイツ、ルクセンブルグ、ベルギーのお隣の国ですから、いろんな民族・宗教の人たちがいました。当初、オランダからニューヨークにやってきた人たちも万別で、多種多様な言語が使われていたようです。ニューヨークは開拓当初から人種の坩堝(るつぼ)だったのですね。

インディアンたちは、寒い冬の越し方や、タバコや、とうもろこし、シリアルの育て方も教えてくれました。

オランダの統治

ニュー・アムステルダム

マンハッタンの最南端には村落ができ、オランダ故郷の港町にちなんで「ニュー・アムステルダム」と名付けられました。ハドソン川上流までの広範囲を、故国にちなんで「ニュー・ネザランド植民地」と名付けられました。

どうしてこの土地が選ばれたのかといえば、大西洋がすぐ目の前に位置し、外海から守られた不凍港だったこと、ハドソン川が北方のカナダまで交通を可能にしたことなど、地の利が理由にあげられます。

そしてニュー・アムステルダム近郊で多く捕れたビーバーは、ヨーロッパで高価な毛皮として高く売れました。また、中国ではシルク(絹)と交換できました。ニューヨーク最初の産業は、ビーバー・毛皮貿易だったのです。

マンハッタンを$24で買い取った!? 1624年、ニュー・アムステルダムのオランダ提督”ピーター・ミニュット”は、インディアンからマンハッタン島を$24相当のビー玉や、短剣、布切れと交換して買い取ります。インディアンはあまり土地に執着していなかったみたいですが、後々白人から島を追いだされることになります。歴史上最大の不動産売買(詐欺)が成立しました。現在でもその取引が行なわれたといわれる場所が残っています。その当時は、「ボーリング・グリーン」と呼ばれるオランダ人のボーリング場でした。現在では、同名の公園になっており、”ブル”の銅像があります。(ブルとは強気の相場を意味します。角が上を向いているからです。弱気の相場はベアーといい、熊が立った時、爪を下に向けることに由来しています)。この銅像は1987年のBlack Fridayという大暴落の後、アメリカ経済の復活を願ってイタリア人アーティストが勝手に(違法で)ウォールストリートに設置したものです。出来栄えがとても素晴らしかったため、設置された翌週に現在のボーリング・グリーンに転地されました。

提督”ピーター・スタイバサント”

ニュー・アムステルダムオランダから持ち込んだ100頭あまりの牛が、朝になると数が減っています。夜のうちにインディアンが泥棒していたそうです。そのため1644年、当時の提督”ウィラーン・キエフ”は、ボランティアを募って牛の囲い柵を作ることにしました。当時は北にインディアン、南にオランダ人が住んでいましたので丁度その境を東西に、木を切り倒し、それを積み上げて牛囲いを作ったのでした。そうして「Cattle Guard」ができあがりました。それでもやっぱり牛は盗まれていたそうです。また、寒い冬などは住民が薪きを炊くためにその木を失敬していたとのことですから、あまり役に立っていなかったようです。

1653年には提督”ピーター・スタイバサント”が、この「牛囲い」を取り除きます。インディアンとの居住区を明確に区別する為に、同じ場所に防壁を設置しました。防壁といっても、今でいうベニア板を張り合わせたような柵でした。東はイースト川から西はハドソン川(当時はブロードウェイの辺りまで川だった)までのほんの400mほどでしたが、これで北のインディアン、南のオランダ人の境界線がはっきりとなりました。したがって、このラインがニュー・アムステルダムの北端を意味します。そしてこの防”壁”のあったラインが後の「Wall street」という通りになりました。

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イギリスの統治

ニュー・アムステルダムからニューヨークへ

ヨーロッパでは新しい時代が幕を開けていました。イギリスがオランダを破り大航海時代に終焉をもたらします。イギリスが北米への航海航路(海上の覇権)を掌握したのです(英蘭戦争)。これによって1664年、ニュー・アムステルダムはオランダからイギリスの植民地となりました。

ヨーロッパでは、絶対君主制(王制)の時代に入ります。イギリスの時の王様、チャールズ2世は夜遊びが大好きで、あまり北米経営に関心がありません。だから弟のヨーク候(Duke of Yoke、後のイギリス国王ジェームズ2世)にニュー・アムステルダムを与えます。ヨーク候は自分の名前にちなんで、新しいヨーク候の土地、「ニューヨーク」と名前を改め統治に乗り出します。

木の壁「Wall street」

イギリスの統治下で、移民者は増加し、街の北限だったインディアン防壁ラインも取り外します。そして、そのラインがあった通りは、木の「壁」があったことから「Wall street」と呼ばれることになります。その当時はまだ、この通りがアメリカを動かし、世界に大きな影響を与える通りになることなど、誰も知る由もありませんでした。

イギリス人やユダヤ人などの増加はオランダ人の人口を追い越します。ドイツ人やオランダ人がイギリス統治に抗い反乱も起こりましたが、イギリス総督によって鎮圧されています。次第にオランダ人の影響力は斜陽化していきます。

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