ニューヨーク18世紀の歴史は、市街地の拡大、海運業の発達、イギリスからの独立、この3点がテーマになります。まさに、「制度の改新(Rebuilding the social structure)」を遂げる時代です。 ニューヨークの人々の暮らしを覗いて見ましょう。
ニューヨークは、オランダの支配下からイギリスに移り、1656年に1000人だった人口が1756年には16000人に増加しました。さらに18世紀の後半には、その人口が60000人になります。同時に、18世紀の後半に、ようやくニューヨークの人口の半数がイギリス系となりました。それでも、まだ半数だったということは様々な民族が共存していた、ということを示しています。
人口の増加は、街を北へ北へと押し上げていきました。北側に住んでいたインディアンもマンハッタン島を追い出されたかたちになります。前世紀の街の北端にあった防壁は、現在のChamber stまで北上し、そのラインを境に南側を市街地、北側を農村地としました。マンハッタンを縦断する南北の大通りは、東側に回り込み北に伸びていきました。現在ではBroadway⇒Park Row(現在のニューヨーク市警の前)⇒ Bowery(現在のチャイナタウン)という通りになっています。
街の南端には砦と港がありました。東側のイースト川沿いは、魚市場などの食料品市場や、毛皮市場、奴隷市場、船の修理工場がならんでいました。教会もユダヤ人シナゴーグや、イギリス国教会の隣にルター派教会(フランス)があり、オランダのプレスビテリアン教会の近くには、クエーカー教徒集会所がありました。多宗派、多宗教ですね。西側のハドソン川沿いのトリニティー教会より北側(ワールドトレードセンター辺りの北側)には、倉庫街が立ち並びました。
当時のアメリカに利益をもたらした貿易は、「三角貿易」と呼ばれるものでした。これは、アメリカ・西インド諸島(カリブ海の島々)・アフリカの3点を結んだ貿易経路です。西インド諸島でさとうきびを栽培し、ラム酒を製造します。それをヨーロッパやアフリカに持ち込み商品や黒人奴隷と交換します。黒人奴隷を西インド諸島や南北アメリカに卸す、という貿易経路です。
ボストンなどでは木材、ニューヨークでは毛皮や生活品などと交換できました。ニューヨークでも奴隷貿易は巨額の富を生み出す大きな産業となりました。したがって18世紀も、ニューヨークは貿易などの海運業が産業を牽引していました。 また、交易船の性能も飛躍しました。ニューヨークからイギリスのリバプールまで片道20日、速い船だと16日か17日で航海できるようになりました。
アメリカ東海岸はイギリスの植民地でした。ニューヨークも当然イギリス国王の持ち物でした。イギリスはフランスと植民地戦争の真っ只中。長きに渡り植民地の覇権をめぐってヨーロッパで、アメリカで戦争を繰り返します。当然イギリス本国の財政は圧迫され徐々に財力がなくなります。イギリス国内の不満も最大になります。そこで課税の矛先を、開発が進み豊かになりつつあったアメリカに向けたのです。1763年からわずか5年間にイギリス議会は、アメリカ植民地に対する9つもの課税条例を次々と可決しました。砂糖や、お茶、新聞、取引上の書類などに課税し始めたのです。また、アメリカ南部の基盤でもあった奴隷貿易は禁じられることになりました。反英感情が高揚していきます。
アメリカ植民地は重税を課せられ始めました。アメリカ側の意見は、イギリス本国議会に代表権のないまま一方的に押し付けられる課税には猛反対する、というものでした。印紙条例に反対する集会もニューヨークで開かれるようになりました。ウォール街のコーヒーハウスやコーヒールームで日夜議論が交えられました。女性もイギリスによる課税に反対する姿勢を、イギリス製品の不買運動で表明しました。一方で、この一連の植民地課税問題に中立的な人々が多かったのもニューヨークでした。彼等はLoyalist(王党派)と呼ばれるイギリス王制のサポーター達でした。 彼等の中には地主が多く、イギリスの統治下でマンハッタン内の土地を分配してもらえるという特権を享受していたからです。
マサチューセッツ植民地では、ワイルドな愛国者サミュエル・アダムスが港湾の労働者を先導してイギリス政府を非難します。この人はかなり強引で、1773年、バレバレなのに港湾労働者をインディアンに扮させて、イギリス商船のお茶を海に投げ込むというゲリラ的な反英行動をとります(ボストン茶会事件)。1775年、マサチューセッツ植民地のレキシントン・コンコルドで、独立革命の最初の血が流れ、母国との戦争が始まりました。イギリス本国から見れば、植民地の反乱となります。イギリス軍はカナダから南下し、五大湖周辺やセントローレンス川地域を制圧します。さすがに世界一の海軍を誇るイギリス軍は圧倒的に強く、軍人のために娼婦まで従軍させる財力までありました。
一方、アメリカ愛国軍は、いうなれば竹やりで大砲に挑むような有様でした。戦火はカナダから南下し、途中ニューヨークでも火花が散ります。その後ワシントン将軍はずーと南まで逃げては戦いを5年間繰り返します。しかし、長期に渡る戦はイギリス兵の戦意を消失させます。同時にイギリス本国の世論も反戦へと傾き始めます。終戦気運に拍車をかけるように、フランス(イギリスの敵国)艦隊がアメリカ軍を支援に到着。フランス軍との共闘で、南部イギリス軍の要所ヨークタウンは陥落しました。
1776年、現在のカナダ付近である五大湖周辺を制圧したイギリス海軍は、1万6千の兵力を以って、今度は海路からニューヨークに攻め込みます。難なくスタッテン島に上陸し、ブルックリンも制圧、北部アメリカの軍事司令塔を現在のブルックリンハイツに配置しました。イギリス軍はマンハッタンを攻略にでます。霧に紛れてイースト川を渡り、ミッドタウン30丁目辺りからマンハッタン上陸に成功。西へ北へ進軍しました。ジュメル邸を拠点とし迎え撃つワシントン率いる愛国軍(大陸軍)は北から攻め込みます。両軍は現在の西128ストリートの付近で衝突しました(ハーレムハイツの戦い)。愛国軍は北と東からイギリス軍を挟み撃ちにし(西はハドソン川の断崖絶壁)、イギリス軍は現在のコロンビア大学のキャンパスのある西120ストリート付近まで後退しました。イギリス軍の死者および負傷者171名、アメリカの愛国軍がアメリカ独立戦争で始めて勝利した戦いでした。
ハーレムハイツの戦いの古戦場は、ニューヨーク一日市内観光、ハーレムとゴスペルツアー、ハーレム地区と史跡保存地区観光ツアー、ハミルトンの足跡を辿るツアーでご覧になれます。
アレクサンダー・ハミルトン邸、モリス・ジュメル邸、ニューヨーク市立大学は、ハーレムとゴスペルツアー、ハミルトンの足跡を辿るツアーでご覧になれます。
1783年、フランスの仲介のもとパリ条約が結ばれ、アメリカはイギリスから独立しました。ニューヨークは独立後始めてのアメリカの首都となります(1789年から2年間のみ、その後フィラデルフィアで10年、1800年よりワシントンDCに移転)。ウォール街にあった市役所(City Hall)が議事堂(Federal Hall)として機能します(現在のニューヨーク証券取引所の斜め向かい)。1789年、その市役所のバルコニーで初代大統領の任命式が行なわれました。$1札の顔写真、独立戦争時のワシントン将軍です。ワシントンは、指揮官としての技量ではそれほど優れた人物とは評価されていません。しかしこの人には人徳がありました。田舎のバージニアで余生を送るつもりだった彼は、アメリカ市民の強い要望で2期大統領を無難につとめあげます。一方、ニューヨークに駐留していたイギリス軍や王党派の住民は、ニューヨークを離れます。王党派がもっていた広大な農地や生活品などが破格の値段でオークションにかけられたそうです。
※ 独立戦争後、アメリカになってからのニューヨークの地図 >>
奴隷貿易は入植初期から開始されていました。ウォール街の突き当たりに現在は、サウスストリート・シーポートという桟橋があります。隣には魚市場があります。当時この辺りは奴隷市場でした。実はニューヨークの黒人の人口は、南部奴隷州よりも多かったのです。現在のハーレムあたりは一面のサトウキビ畑で、そういった場所で一部は働いていました。驚いたことにニューヨークでは黒人奴隷が自分の農場(farm)や土地(land)を所有することができました。
奴隷は、荘園(プランテーション)などで畑を耕すものと受け止められがちですが、実は、ニューヨークの大多数の奴隷は家庭内サーバントがほとんどでした。つまり、女性は女中として働き、男性は職工として町工場や商店で働きました。また、主人と一緒に街を歩いたり、同じテーブルで食事をしたり、自分で結婚相手を選んだりすることもできました。黒人奴隷に対する生活条件は、南部のそれとは比較にならないほど良いものでした。 18世紀後半の1790年、ニューヨークの黒人人口の3分の1は奴隷ではありませんでした。
アメリカ南部では黒人は物と同じでした。商品ですから売買ができ、殺しても構いませんでした。左図は奴隷貿易船のデッキを示しています。こうやって座れる船はまだ恵まれている方で、きつく手足を縛られて、寝返りをうつこともできない程すし詰めに積まれてくることも多かったのです。もちろん多くが航海中に亡くなっていますが、死んだらそのまま海に捨てられていました。南部のタバコ荘園では、子供も女性も、朝星の刻から夜星の刻まで、馬と同じように働かされました。
18世紀(1700年代)に入ります。イギリスやスコットランド、スカンジナビアなどからの移民者が増大します。移民者は、ニューヨークだけでなく、アメリカの東海岸の各地に入植し開拓していきます。アメリカへ移住した人々は、地域によって3つの特徴がありました。この3つの特徴は、現在にも受け継がれている部分があります。
イギリスではヨーマンと呼ばれた小作人や囚人が中心でした。ヨーマンは、自分の土地を得るために新天地に渡ってきます。また囚人はイギリスの財政難からアメリカに送りこまれました。南部でもインディアンから「海水を飲んだら死んじゃうこと」やタバコの栽培の仕方などを教わります。そしてタバコ栽培とタバコの輸出が南部植民地を支えることになります。
また、タバコの他には奴隷や土地の取引が経済の基盤でもありました。したがって地主や荘園主が南部の権力者といえます。一家の代表は当然男性であり、女性や奴隷に対する扱いも、アメリカ北部の植民地よりも酷いものでした。「女性は父に従い、夫に従い、最後は子に従う。」南部では女性も奴隷と同様とみなされていたのです。現在では考えられませんよね。なお、教会の数も少なく、村から村の間隔も広かったため、それほど教会に通う習慣は強くなかったといいます。
アメリカ北部(ニューイングランド)とは、ボストンの位置するマサチューセッツ植民地から南はコネチカット州、西はバーモント州を指します。主にイギリスの王政(王様)と意を反にする、つまりイギリス国教会とは別の流れをくむイギリス新教徒(ピューリタン)が入植し開拓してきた土地です。彼等は信仰深く、我慢強く、寒い土地を開拓していきます。彼等が街を建設する時は常に、中心に教会を配置し、次に学校や役所、それを取り囲むように住居を建てていきました。北部の基盤は、プロテスタントという宗教にあったともいえます。しかしながら、敬虔なプロテスタント信者の中にもいくつかの考え方に分かれていきます。より自由を求めた移民者たちは、少し南へ南下して、コネチカット州やロードアイランド州を建設することになります。
アメリカ中部とはニューヨークを指します。この地域の特徴は、「混沌」という言葉がお似合いかもしれません。あらゆる価値が複雑に絡み合っているという意味が含まれていると思います。民族、言語、宗教、ビジネス、職種などのあらゆる価値に関してです。先ず、前項でお話したとおり、ニューヨークにはオランダ人の入植から始まり、ヨーロッパやアフリカのあらゆる民族がともに生活していました。当然、開拓時から様々な言語が使われていました。宗教もオランダの新教(プレスビテリアン)からユダヤ教、カソリック、プロテスタントなど多くの宗教が混在しています。当初オランダの総督はプレスビテリアンに宗教を統一しようと試みましたが、他の反対により宗教を統率することが不可能なことを知ります。
イギリスの統治下においても同様に、宗教に関してはイギリス国教会を強制することなく宗教で抑制をしない立場をとります。このような自由で選択できる価値観は、ニューヨークの移民にストレスを与えることなく、逆にビジネスへの意欲を伸長させるものでした。女性や奴隷に対する差別も南部に比べると穏やかなものでした。彼等のプライオリティーは、何よりもビジネスにあったからです。