アメリカの坂本龍馬、アレクサンダー・ハミルトンの足跡を辿る歴史ツアー

生粋のニューヨーカー、ハミルトンの足跡を辿りながらニューヨークやアメリカの生い立ちを学ぶ 日本語観光ツアー

ハミルトン歴史ツアー
ハミルトンゆかりの歴史スポットが多数見れる
ハミルトン邸など18世紀の建築物にも潜入しよう

観光ツアーご案内

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ツアー情報

おすすめ
アメリカをデザインした男の足跡を辿り、彼の残した伝説や偉業を見学します。同時に、1.いかにアメリカが独立に至ったか、2.アメリカ国家がどう創られたか、3.アメリカの金融システムがどう創られたか、を学びます。仕事に携わる全てのビジネスマンに捧げる元気が出るツアーです。

このツアーの4つのポイント

歴史的建造物も

18世紀の歴史が見れる

アメリカ建国期の18世紀の数々の歴史的建造物がご覧になれます。
自由の女神も見れる

観光名所も多数

比較的に市内観光コースと被りますので数々の観光名所もご覧頂けます。
ニューヨーク観光で下車

下車ポイントが多数

下車して見学したり、敷地や建物にも入場する歴史に触れられるツアーです。
ハミルトンパーク観光

決闘の場所も

ご希望により決闘の場でもありマンハッタンが一望できるスポットも追加可能。

基本情報

ツアー名 アレクサンダー・ハミルトンの足跡を辿るツアー
集合時間 8:00 AM※ 正確なお時間はご予約確認書にて
お客様の宿泊先または近場での集合時間をご案内致します
集合場所 ご滞在先、またはお近くまでお迎えにあがります!
※ お迎えできる範囲、範囲外の場合の集合場所についてはこちらをご確認ください。
※ 1名様でご参加のお客様は、最寄の指定ホテルでのお迎えとなる場合があります。
※ 繁忙期は集合・解散場所が変更となります。詳細 >>
解散場所 ご滞在先ホテルまでお送りします。
催行日 ※ 不催行日:1月1日
所要時間 一般コース:7時間 (8:00出発 – 15:00終了)
オプションコース01:8.5時間 (8:00出発 – 16:30終了)
オプションコース02:10時間 (8:00出発 – 18:00終了)
最少催行人数 大人2名様
催行会社 AT NEW YORK & COMPANY
含まれるもの 送迎料、日本語ガイド、車輌代、税金
チケット受取 (チケットご購入時にお知らせ下さい)
※ あっとニューヨークでご購入頂いた、メジャーリーグミュージカル、展望台等の観光地入場券のチケットをお受取りいただくことが可能です。

空前の大ヒットミュージカル、ハミルトンのチケットも販売中

ミュージカル・ハミルトン

ハミルトンと建国に命を捧げた若者たちの鎮魂ミュージカル

一時は最も安い席でも$2000を超えた絶大な人気を誇るミュージカル。それもその筈。2016年トニー賞にて最優秀作品賞を含む11部門を総なめにする歴代記録を樹立。ハミルトンのダイナミックな生き様と、アメリカの独立へ生命を投げ出す若者たちの友情と葛藤が生き生きと描かれた作品です。ハミルトン歴史ツアーとミュージカルをセットで見れるのもニューヨークならでは。是非ご鑑賞下さい。
ミュージカル・ハミルトン >>

ハミルトンの生涯

みどころ
カリブ海の小島で生まれ育った少年がニューヨークに来てみたら独立戦争の夜明け前。志高く、勉学に励み戦いに明け暮れ、気がつけばアメリカ最大の権力者ジョージ・ワシントンの右腕となっていた。ハミルトン無くしてワシントンは生まれず、アメリカも合衆国になることはなかったであろう。怒涛の如くアメリカの礎を築き上げていく青年、それがアレクサンダー・ハミルトン。そして、そのハミルトンが生涯愛した街、それがニューヨーク。ハミルトンゆかりの地を巡りながら、ニューヨーク、そしてアメリカがどうやって生まれたのかをその目でしっかり確認して頂く。

ハミルトンの偉業サマリー

  1. カリブ海の小島デイビス島で生まれ育つ
  2. 13歳で母が死去し孤児となりセントクロイ島の貿易商にて奉公
  3. 創設期の現コロンビア大学(キングスカレッジ)に入学
  4. ニューヨークで民兵部隊を組織し独立戦争に参加
  5. ジョージ・ワシントン総司令官の大陸軍副司令官に任命
  6. 現沿岸警備隊(Coast Guard)の設立
  7. 戦後、コロンビア大学を復活させ設立
  8. 現存するアメリカ最古の銀行、Bank of New Yorkを設立
  9. 現存するアメリカ最古の新聞、New York Post(Evening)を設立
  10. 反奴隷制マニュミッション協会をJohn Jay等と共に設立
  11. ニューヨーク上院議員として憲法制定会議を招集
  12. 合衆国憲法の批准草案(The Federalist Papers)85編中51を記述
  13. アメリカ独自主義(ヨーロッパ戦線への不介入主義)外交を発案
  14. アメリカ初代財務長官に任命、 アメリカ金融システムの祖となる
  15. 中央銀行(現アメリカ連邦準備銀行システム)を設立
  16. 州貨幣を停止し、ドル貨幣(当初はコイン)へ国内通貨を統一
  17. 税関執行および税徴収制度の制定
  18. アメリカ初の政党、フェデラリスト(連邦党)を創設し初代党首に
  19. ワシントンDCの開発と首都の移転を承認
  20. アメリカ初の国家事業としてニュージャージー州で産業開発
  21. 製造業で母国イギリスを凌ぐ大国に発展させる百年の計を立案
  22. ワシントン大統領退任式のスピーチ原文を草案
  23. ワシントンの死後、アメリカ陸軍総司令官を歴任
  24. 副大統領アーロン・バーと決闘し翌日47歳で死去

ハミルトンの偉業を時系列で解説

カリブ海の小島で生まれる

1757年、カリブ海の小島Navis(ネイビス島)でアレクサンダー・ハミルトンは生まれた。13歳で母親を亡くし孤児となる。

孤児となり奉公にでる

14歳の時、近隣の小島St. Croix(セントクロイ島)の貿易店に雇われ奉公した。そこで文才を発揮。店主他の後援者等によりアメリカ留学を支援される。

ニューヨークに留学しキングス・カレッジに入学

1773年、ニューヨーク港に到着したハミルトン。エネルギッシュな街並み、世界中の新しい文物が彼の目に飛び込んできた。世界中の言語が喧騒となって彼の耳にこだました。一瞬にしてニューヨークは彼の心を掴んだ。まさしく、Alexander Hamilton! New York, You can be a new man!(ハミルトン!ニューヨークで君は新しく生まれ変わる!)というミュージカル・ハミルトン冒頭のこの歌詞が頭に浮かんだことだろう。彼はキングス・カレッジ(現コロンビア大学の前身)に入学し商業、経済、政治、歴史を専攻した。※キングスカレッジは、当時イギリスの植民地であったアメリカはニューヨークに1754年に設立されたイギリス王立の大学。イギリス国教会のトリニティー教会の敷地内に創設し、当初は創設者のサミュエル・ジョンソン牧師一人で教諭を始めた。

独立戦争が勃発し民兵を組織

同年、イギリス支配に対抗するアメリカ市民の反発から、アメリカ独立戦争の火種となるボストン茶会事件が勃発。ハミルトンもエッセイを執筆しイギリス政府を攻撃。軍事を猛勉強し民兵を組織し独立戦争に参軍。砲兵隊を指揮した。

ワシントン将軍と出会い右腕となる

ここでハミルトンの運命が変わる事件が起きた。大陸軍総司令官ジョージ・ワシントンとの出会いである。ワシントンは大陸の戦地全てを統括して各地へ指示を出さなければならず、そのコンタクトはインターネットも電話もない時代で膨大な量の手紙を書くことによりなされていた。ハミルトンはワシントンが何を考え何を命令するのかを推測することができた。また、ワシントンはハミルトンの忠誠心、本質を見抜く力、そして文才を評価した。ハミルトンはワシントンに信頼され副軍事司令官を任命され将軍の秘書となる。以後、ワシントンの生涯でハミルトンは無くてはならない存在となる。ハミルトンにとっては大陸で最も有名で人望のある将軍が親代わりでスポンサーとなったのだ。子供のいないワシントン、そして親のいないハミルトン、お互いが何ものにも代えがたい存在となった。

中央政府の無力さを痛感

ハミルトンは戦地から幾度となく物資や資金の援助を中央政府に要請する。しかし中央政府にはその判断力も資金も無かった。そして組織の無力さを露呈する。その結果、ハミルトンは、中央集権化した合衆国とその金融基盤の必要性を痛感することになった。それが、その後の国家建設の基盤となる、国内統一、合衆国構想(Unided Nation)である。アメリカをまとめあげること、それがハミルトン生涯の思想となった。

コロンビア大学の設立

1783年、独立戦争が終わると、ハミルトンは戦火により消失した母校キングスカレッジを新たにコロンビア大学と改名して開校した。

合衆国の設立を誓う

13の各国(後の州)は、戦後その借金を返済し回復しつつあった。しかし、全体の中央政府には税も集まらず資金も権力もなく、アメリカは依然ばらばらの国(州)の集合体にしか過ぎず、強力な中央政府を持つ合衆国設立の必要性を痛感した。

アメリカを一つの国と考える

恐らく、アメリカ市民は各々が元々所属している州が所属単位であって、州を集めた国という単位の意識がなかったのだろう。日本にも同じ感覚が過去にもあった。戦国時代から江戸時代になった時期、そして幕末から明治になった時期である。また、今日の日本人が日本の上の単位であるアジアやユーラシアを一つの国と考えることができないのとも似た感覚である。しかしながら、カリブ海の小さな島で生まれ育ち、アメリカに移民してきたハミルトンにとってはアメリカを一つの単位とする考え方が自然にあった。

先ず憲法作成にとりかかる

ハミルトンは、国を一つにまとめあげる仕事に帆走した。先ずは、国家建設の基盤となる憲法の草案(Federalist Papers)をヴァージニアの政治家ジェームズ・マディソンと、 ニューヨークの法律家ジョン・ジェイ(米国初代最高裁長官。その名を冠した法律大学がニューヨークにある)とともに執筆。85の論文のうちの51、つまり6割をハミルトンが一人で書き上げた。さらにFederalistの賛同を得るため、New York Evening Post紙を創刊し民衆をも啓蒙し世論の指示を得た。※New York Postの名に現在は変わったが現在でもニューヨークの街角で売られている大変読みやすい新聞である。現存するアメリカの新聞としては最も歴史のある新聞である。

憲法が採択される

1787年、憲法制定会議において憲法が採択。翌年、合衆国憲法が発布。13の州が一つの合衆国となりアメリカが始まることとなる。さらに、13の利益の異なる州を統一し、新政府の成功を確かなものにするには、13州を束ねる強力なリーダーシップが必要だった。ハミルトンは、ヴァージニア州マウントバーノンに隠居していたジョージ・ワシントンに政界復帰を呼びかけた。当時のアメリカではジョージ・ワシントンが最も名声があり尊敬された唯一無二の人物であり、ワシントンの右に出る人物は他に誰もいなかったからである。日本においては、幕末の西郷隆盛がまさしくそうであったろう。

アメリカ合衆国を始める

そしてついに、翌1789年、ジョージ・ワシントンは100%の支持率で初代の大統領に就任した。100%という完璧な支持による大統領当選は後にも先にもワシントンただ一人である。大統領就任式はニューヨークのウォール街にある旧市役所で行われ、アメリカが始まった。1789年と1790年シーズンはニューヨークをアメリカの新しい首都とし、旧税関・旧市役所を国会議事堂として使用した。ハミルトンは、ワシントンにより初代財務長官に任命され、国家建設という大仕事を託された。その時ハミルトンは若干32歳。強力なリーダーシップと人望を誇るワシントンの後盾があればこそハミルトンは自由に大空を羽ばたくことができたのである。

南部と北部の妥協案

1790年、ハミルトンは独立戦争による莫大な借金の返済と国家財政の立て直しに着手した。各州へ戦時借金を分担するよう説いてまわるが、南部の大州ヴァージニアは借金は返済済みだと主張して支払いを拒否。ある日、ヴァージニア出身のトーマス・ジェファーソンはハミルトンとの食事の際、「借金返済の肩代わりをしてもいいが、その代わりに首都を南のヴァージニアに近いポトマック河畔(現ワシントンDC)に移して欲しい」、という交換条件を提示した。有名な、「1790年の妥協」(Compromise of 1790)である。これにより、政府は金を得ることに成功し、ヴァージニア州は首都を南部の近場に移転させることに成功した。この食事は現連邦準備銀行の北にあったトーマス・ジェファーソン宅の2階で行われた。食事の席で国家に関わる重大な決定を行った歴史的にも稀な出来事で、当時がまだおおらかな時代であったことを伺わせる。※1700年代後半は、奴隷貿易やプランテーションで南部、特にヴァージニアの経済は豊かであった。

金融システムの改革

1791年時、次にハミルトンは、アメリカ金融システムの構築に乗り出した。ハミルトンは、ウォール街で取り引きされる5つの国債のうち3つを発行した。Bank of New Yorkの株主は依然ハミルトンであり、アメリカの中央銀行(後の連邦準備銀行 FRB)もハミルトンの手により設立された。また、当時13の州は各々の通貨を発行しており、州間の為替交換が難儀であった。そこでハミルトンは造幣局をフィラデルフィアに創設し銀と銅のコインを発行した。これがアメリカの貨幣、ドルの始まりである。ハミルトンは、ここまでのアメリカの金融システムをおよそ2年間で作り上げたのである。ハミルトンは、文字通りアメリカ経済、つまりウォール街の創造主であった。また、アメリカ国政においても最も巨大な権力を持つまでに至った。これはワシントンの強力な後ろ盾があったためであったし、ワシントンが、「強力な中央集権型の政府を作りたい、そして13の州を一つの政府でまとめなければならない」というハミルトンの思想を強く支持していた証明でもあった。

合衆国の立ち上げの終わり

1795年、ワシントンの大統領2期目の半ば、ハミルトンは当時首都であったフィラデルフィアから下野。ニューヨークに戻り、家族との時間を大切に過ごした。1797年、ワシントンも大統領の期間2期を勤め上げ、権力がワシントン本人に集まり過ぎるのを危惧して3期目を自ら辞退。以降、大統領の任期は2期までという慣例ができた(例外はフランクリン・ルーズベルトの4期のみ)。2年後の1799年、軍の総司令官の職にあったワシントンが死去。ハミルトンはワシントンの代理としてアメリカ陸軍総司令官を半年勤めた。

長男フィリップの最期

1801年、ハミルトン家の長男、フィリップ・ハミルトンが父の誇りを賭けて父を侮辱したジョージ・イーカーと決闘し死去。19歳であった。この頃よりハミルトンは、ハミルトン・ハイツの邸宅を住居とした。

ハミルトンの最期

1804年、政敵アーロン・バーと決闘し重傷を負う。グリニッジ・ビレッジの知人宅に連れられ多数の医師により介助が試みられるも、翌日、友人や家族に看取られ47年の生涯を閉じた。ニューヨーク中の商店が店を閉めニューヨーカーは悲しみに包まれ喪に服したという。遺体はハミルトンの母校であるキングス・カレッジがあったトリニティー教会に埋葬された。現在も妻と長男と共に眠っている。

※ バーとの関係
ハミルトンが孤児でカリブ海の小島からの移民だったのに対し、バーは、プリンストン大学の2代目学長の子息という裕福で恵まれた出自。バーも、独立戦争時にはジョージ・ワシントンの元で働き、後に弁護士の資格を得て政治家となった。1789年、バーは、ニューヨークが州となった初代の司法長官に任命され、1791年の上院議員選ではハミルトンの義父(連邦派)を破り当選。ハミルトン率いる連邦党の対立派閥である民主共和党へ入党した。また財界でも、ハミルトンがニューヨーク銀行を創設すれば、バーはマンハッタン銀行を創設。ハミルトンとバーは、お互いが最大のライバルとなった。1800年、トーマス・ジェファーソン大統領就任時、バーでなくハミルトンの案(バーではなくジェファーソンを推す)が採用され1801年からジェファーソンが大統領になったこと(バーは副大統領となる)や、その後、ニューヨーク州知事に出馬したが、ハミルトンのキャンペーンの影響もありその選挙に敗退したことで、バーはハミルトンに対して決闘を挑戦し、ハミルトンは紳士的に挑戦を受けたのである。

※ 独立革命と明治維新

アメリカ黎明期には、南部ヴァージニア州から、数多くの大統領が輩出された。初代ワシントン、3代ジェファーソン、4代マディソン、5代モンロー、と。ヴァージニアはちょうど幕末から明治期における薩摩のような存在であったと言えよう。そして明治維新最大の功労者である西郷隆盛がちょうどワシントンに重なる。お互い誰よりも体躯が大きく、誠実で、人望が厚く、強力なリーダーシップを持っていた。西郷は革命の後、新しい国家を設計するビジョンに乏しかった。ワシントンにおいてはそれをハミルトンが補った。ハミルトンはアメリカをデザインし猛烈なスピードで考えを現実に変えていった。ハミルトン無しではアメリカ合衆国は作られなかったであろうし、アメリカのその後の発展も期待されなかったであろう。タラレバになるが、日本も維新後に坂本龍馬が生きていたら、、、新政府が分裂することも、西南の役も起こらなかったかもしれない。商才に長け国家の進む未来を描きそれを現実化させる才能があった、という点でこの二人の若者は類似していたといえる。

観光スポット

独立戦争時のマンハッタンの地図

独立戦争時のニューヨークの地図

ニューヨークは南端から街が始まり北に向かって開拓されてきた島である。独立戦争当時はウォール街の少し北側まで街が拡大しており、それよりも北は農場か豊かな自然が広がっていた。ツアーも南から北に時代とともに周っていく。
コロンビア大学

キングス・カレッジ(現コロンビア大学)

ハミルトンの母校、キングス・カレッジはイギリス王立学校のニューヨーク校で、1754年、国王ジョージ二世の命によりニューヨーク・イギリス国教会に創設された。独立戦争の戦火により休校となり、戦後、ハミルトン等の支援により、コロンビア大学と名前を変えて移転。
トリニティー教会ハミルトン墓

トリニティー教会

イギリス国教会の総本山。19世紀中頃までアメリカ一の高層建築であった。新生アメリカ建設時に亡くなった独立戦争の志士達が葬られている。ハミルトンの墓は一際大きなピラミッド型の墓石があるところ。
フェデラルホールでアメリカ最古の首都

連邦ホール

ウォール街の中心にあるアメリカ初の国会議事堂。当時は市役所や税関として利用されていた建物で、2階がコロニアル様式のバルコニーがあり、そこでジョージ・ワシントンの初代大統領の就任式が行われた。当然、その折にはハミルトン等のアメリカ建国の父が勢揃いした。現在では建物は建て直され、正面に大きなジョージ・ワシントンの銅像が建立してある。
ニューヨーク証券取引所

ニューヨーク証券取引所

連邦ホールの正面、モルガン本社の道向かいに立つ、アメリカ金融の象徴的建物。1929年の世界大恐慌ではこの前の道が半狂乱の群衆により埋め尽くされた。前には「恐れを知らぬ少女」の銅像もたっている。
アメリカ最古のニューヨーク銀行

ニューヨーク銀行(アメリカ金融博物館)

1784年にハミルトンにより創業。現在は、ウォール街とウィリアム通りの角にある現存するアメリカ最古の銀行。アメリカ金融博物館となっており、Alexander Hamilton Roomもある。ハミルトンは斜め前の、57 Wall St 番地をホームオフィスとして暮らしていた。 ※ハミルトンは当初、銀行をウォール街とウォーター通りの角で創業した。
ボーリンググリーン

ボーリンググリーン

ニューヨークの始まりの地でニューヨーク最古の公園。オランダの植民地時代は野外ボーリング場だったためその名称が用いられている。イギリスの植民地時代にはイギリス国王ジョージ2世の騎乗の銅像が立っていたが、1776年7月4日の独立宣言の発布の後、銅像はニューヨーカーにより引き摺り倒された。少しブロードウェイを北にさかのぼったところ(39 Broadway)に、初代大統領ジョージ・ワシントンのプレジデントマンションがある。ホワイトハウスができる以前の大統領邸であった。独立当初1789年と90年の2年間、アメリカの首都がニューヨークにおかれてあった為。
ハミルトン税関局

アレクサンダー・ハミルトン合衆国税関

ボーリング・グリーンの南に立つボザール様式の傑作。ウールワースビルの設計で有名なキャス・ギルバート作。船の時代のニューヨーク港の関税徴収の拠点であった。財務省によりハミルトンの名にちなみ命名。現在は、国立博物館として、アメリカインディアン博物館の分館となっている。
クリントン城

クリントン城

独立戦争以降もイギリスの攻撃を想定して、アメリカ陸軍により1811年に建設された要塞。元々マンハッタンから切り離された島に建設されたが、その後埋め立てられマンハッタンと陸繋がりとなった。ハミルトンと同時代にニューヨーク市長だったクリントン市長の名にちなむ。後に陸軍から市に譲渡され、オペラハウス(キャッスル・ガーデン劇場)として利用され、1822~1890年の期間中にはアメリカ初の移民局となった。現在は自由の女神行きフェリーの切符受け渡し場として利用されている。海岸から自由の女神も眺望できる。
ニューヨーク最古フランセスタバーン

フランセス・タバーン

1719年築の国立歴史的建造物に指定された現存するニューヨーク最古の建築物。当時の市長コートラント家から不動産を譲渡された名士デュランシー家が屋敷を建てた。黄色いレンガはオランダからの輸入物であった。その後、フランシス家に売却されタバーン(レストランバー)となる。海まで1ブロックで港湾の関係者や貿易商等に利用され、ニューヨーク商工会議所がここで設立された。独立戦争時には、サミュエルアダムスの秘密結社や、ハミルトン率いるキングス・カレッジの民兵の集会所となる。独立戦争後、1783年9月にパリ条約が結ばれ正式に休戦となる。11月25日にようやくイギリス軍がニューヨークから完全に撤退。その一週間後の12月4日に、ジョージ・ワシントン将軍が将校を召集し軍隊の解散式を行ったのがこのレストランのロングルームであった。1804年、ハミルトンとバーは、決闘の数日前にもここで商工会の集まりで食事を共にしていた。
ハミルトンの死んだグリニッジビレッジ

没地 82 Jane St

バーに腹部を撃たれ致命傷を負ったハミルトンが、運び込まれたグリニッジビレッジのこの友人宅。ハミルトンはこの場所で家族に看取られ翌日に亡くなった。
ヨークタウンの戦い時のハミルトン

独立戦争の激戦地(跡地)

1776年の独立戦争におけるハーレムハイツの戦いの激戦地。ハミルトンにとっては初陣でありワシントン率いる大陸軍初勝利の戦いでもあった。戦場は現モーニングサイド・ハイツのブルーミングデールズ通り(現ブロードウェイ)沿いのコロンビア大学の正門から北側の傾斜した当時小麦畑が広がっていたエリア。以降、ハミルトンは幾人もの将校からリクルートを受けるが、ワシントン将軍と生死を共にする道を選んだ。
コロンビア大学のハミルトンホール

ハミルトンホール

コロンビア大学は、ハミルトンの母校にして、アメリカを代表するアイビーリーグの1校。ノーベル賞受賞者数は100名を超える。ハミルトンホールはコロンビア大学中心にある建物で、ニューヨークで最も有名な建築家マッキム・ミード&ホワイトによるデザイン。正面にハミルトンの銅像がある。キャンパス中央のビジターセンタードームと図書館とともに絵になる写真が撮れる。※アメリカに多い名前であるコロンビアは、アメリカを初めて発見したコロンブスに由来する。
ハミルトン・グランジ

ハミルトン邸

長男フィリップを失くした後、ハミルトンはマンハッタン北部にあるこの家で過ごす日々が多くなった。この家はハミルトンが初めて建てた家で、本来はコンベント通りの143丁目にあった。その後、141丁目の教会の北側に、そして現在の141丁目に移転された。裏にはニューヨーク市立大学の壮大な校舎がそびえ立つ。この大学は初代駐日アメリカ公使である、タウンゼント・ハリスが創設したニューヨーク市立フリーアカデミーが起源である。ハリスは外交官になる前はニューヨーク市教育委員会の代表であり、ニューヨーク市立大学システムの祖とされている。
モリスジュメル邸

モリス・ジュメル邸

マンハッタン北部ワシントンハイツの小高い丘に立つ1765年建立のフェデラル様式の大邸宅。私邸としては現存するニューヨーク最古の家で現在は博物館になっている。所有者であるイギリス軍人のモリス家が独立戦争時イギリスに退去した間、ジョージ・ワシントンのアメリカ軍により占拠、軍の司令部とした。1790年には、ワシントン大統領が側近の3名、副大統領ジョン・アダムス、国務長官トーマス・ジェファーソン、そして財務長官のアレクサンダー・ハミルトン、と会食を催した。後にフランス商人のジュメル家に買い取られた。その後、ジュメル婦人は未亡人となり、ハミルトンを決闘により殺害したアーロン・バーと再婚。所有者の両家の名にちなみモリス・ジュメル邸と呼ばれている。周辺を取り囲む出窓のあるロマネスク建築のジュメル・テラスや、邸宅の前にある有名な木造建築のシルヴァン・テラスも見どころである。
ハミルトンパーク

決闘の地(オプション01)

この場所はニュージャージー州になるためオプション料金となる。ミッドタウンからハドソン川を渡ってすぐの断崖絶壁の上に位置する。ハミルトンパークの少し南側。ニューヨーク州ではなくニュージャージー州となり法律が異なり、決闘で殺人罪が問われない不文律があった。ハミルトン家の長男フィリップも同地で決闘により死去していた。ハミルトンは森を背にニューヨークを向いて頭上に拳銃を撃ち、副大統領のバーの放った銃弾を下腹部に受けその場に倒れた。
ハミルトンパークからニューヨークを眺める

ハミルトンパーク(オプション01)

ハミルトン決闘の地でたいへん有名な観光名所。マンハッタン島をハドソン川越しに渓谷の絶壁の上から眺望できる絶景の場所である。写真はマンハッタンのミッドタウンが正面に映る夜景。写真はミッドタウンのみだが、ダウンタウンやウォール街のあるマンハッタン最南端までのダイナミックなパノラマを見ることができる。驚きの景色に他ならない。
実弾の射撃ツアーを体験

実弾射撃を体験(オプション02)

ハミルトンがピストルで決闘した地、ニュージャージー州には射撃場が多数あり、ピストル、ライフル、ショットガンの射撃ができる(21歳以上)。ガンショップに普通に並ぶ拳銃を見たり、誰もが手軽に拳銃の試し撃ちをする光景に銃社会アメリカの本質を見ることができる。

口コミ・評価

ハミルトンの足跡を辿るツアーの口コミ

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ハミルトンの足跡を辿るツアー の総合評価

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皆様からの口コミ

ハミルトンの足跡を探るニューヨーク歴史ツアー
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料金プラン

ハミルトンの足跡を辿るツアーの予約

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基本コース
商品コード:HAMI-2023

$195

マンハッタン内の基本コース
7時間
大人(12歳以上) $195
子供(2~11歳) $165 / 幼児(1歳以下) $55
オプションコース01
商品コード:HAMI01-2023

$245

基本コース + 決闘の地ハミルトンパークへ
8.5時間
大人(12歳以上) $245
子供(2~11歳) $215 / 幼児(1歳以下) $65
オプションコース02
商品コード:HAMI02-2023

$395

基本コース + オプション01 + 実弾射撃へ
10時間
大人(21歳以上) $395
子供(20歳以下) 不可

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お申込み最終日
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キャンセル条件
  • 催行日5日前の18時まで ⇒ 取消料は無料
  • 催行日5日前の18時以降 ⇒ 取消料は全額(100%)
お支払い方法
  • クレジットカードでの前払い
注意事項
  • ガイドは車を運転しながらご案内します。駐車ができず、ガイドが同行できないスポットもございます。
  • 天候や交通事情などによりコースが変わる場合もあります。
  • 9/11追悼式や、祝日、イベントなどで観光が行えない場合もございます。
  • 本ツアーは混載ツアーとなります。車両の車種と混載人数はツアーにより異なります。